関東動乱(鎌倉公方VS上杉氏)

2022年2月24日

関東動乱

 

前章で上杉家が関東管領を世襲するようになったところまで書きました。

権力を掌握した上杉家と、鎌倉公方の関係は徐々に険悪になっていきます。

そのはざまで、関東の各豪族は敵味方となり戦っていきます。

この章では、鎌倉公方と上杉家の相克を取り上げます。

鎌倉公方

鎌倉幕府が崩壊した後も、武家政権の中心はなお鎌倉にありました。

当初鎌倉には、後醍醐天皇の皇子である成良親王が、鎌倉府将軍として着任し、足利尊氏の弟足利直義が執権として付きました。

この直義が鎌倉府の基礎を築き、統治体制を整えました。

その後直義に代わり、尊氏の息子足利 義詮よしあきらが鎌倉を納めています。(義詮は二代目将軍)

京都では尊氏の執事高師直こう もろなおと直義の関係は悪化しついに直義が失脚すると、義詮が京へ呼び戻され代わりに弟の足利基氏が鎌倉に呼ばれます。

この基氏が初代の鎌倉公方となり、これ以降も基氏の子孫が世襲していきます。

鎌倉公方もしくは関東公方と呼ばれる役職は当時にはなく、鎌倉殿もしくは鎌倉御所と呼ばれていました。

鎌倉公方とは、室町幕府の将軍が関東10か国を統治するために設置した鎌倉府の長官のことで、将軍の代理人という立場です。

上杉氏

鎌倉公方のライバル、関東管領の上杉氏に関して説明します。

上杉氏は藤原北家の流れをくむ下級貴族でしたが、鎌倉時代に宗尊親王が鎌倉幕府将軍(皇族初の将軍)として擁立されました。

上杉氏の祖となる藤原重房は、宗尊親王の介添えとしてともに鎌倉へと赴いています。

重房は鎌倉幕府のもとで、丹波国何鹿郡上杉荘を拝領し武家化します。この上杉荘を拝領してから、上杉を名乗るようになります。

鎌倉幕府内で源氏の名門として力を持っていた足利氏と、朝廷とのつながりなある上杉氏は婚姻関係を結び、上杉氏は足利家の中で実力をつけていきます。

重房の孫娘清子は、足利貞氏の妻となり足利尊氏・直義を生んでいます。

上杉家は室町将軍家の姻戚として、室町時代には大きな力を有していたのです。

初代関東執事上杉憲顕を祖とする山内上杉家が嫡流となり、他に分家として 犬懸、宅間、扇谷の3家がありました。呼び名は個々の家が所在した土地の名称を名乗っています。

室町初期の鎌倉公方と上杉家

足利尊氏と敵対した直義側の武将だった上杉憲顕は、信州に追放され越後へと落ち延びていきます。(この時代豊島氏は、尊氏側についていたので有力御家人として鎌倉時代以来の絶頂期となっています。)

尊氏が死ぬと、初代鎌倉公方の基氏は憲顕を呼び寄せ復権させています。

義詮・基氏兄弟は幼少時に憲顕を執事としていたため、尊氏死後憲顕は復権できたのです。

基氏亡き後は鎌倉公方と上杉家の関係は悪化し、徐々に対立するようになっていきます。

対立の原因の一つは、関東管領職は将軍に任命権があるため、鎌倉公方とは主従関係がないことに起因したとされています。

将軍家と鎌倉公方の関係は微妙で、将軍の家臣である上杉家は鎌倉公方にとっては煙たい存在でした。

禅秀の乱

応永23年(1416年)についに犬懸上杉家の上杉氏憲うじのり禅秀)が謀反を起こします。これを禅秀の乱といいます。

氏憲は前関東管領という立場にありましたが、そりの合わない4代目鎌倉公方足利持氏に対して挙兵したのです。

上杉家内では、宗家の山内上杉より犬懸上杉の方が実力をつけ権力を握っていたことによる山内上杉からの反撃もあったと言われています。

乱は氏憲の自害により終息し、これ以降犬懸上杉が没落し山内上杉家が関東管領を世襲することになります。

永享の乱

禅秀の乱では、足利持氏は幕府と山内上杉家と協力していたのですが、次第に関係は悪化していきます。

上杉家の所領権や守護職・関東管領への補任権は、幕府が握っており上杉家はその下につく立場でした。

持氏は禅秀の残党などを独自で粛清し、幕府との間に溝ができてしまいます。

この時の関東管領は上杉憲実のりざねで、持氏を諫めますが功を奏さず対立を助長してしまいます。

持氏は憲実を討とうとしますが、幕府側から援軍が到着し逆に持氏は追い詰められついには自害してしまいます。

持氏の自害により乱は収束しますが、北関東では抵抗が続き戦乱は終息しませんでした。

事態終息のため幕府は、持氏の息子の足利成氏 しげうじを5代目の鎌倉公方につけ調停しようとしました。

この時代までは正式には関東管領は鎌倉公方がついていたのですが、勝者上杉側は成氏に管領を名乗らさづ、自らが管領を名乗り家臣の長尾・太田氏に執事を名乗らすようになります。 (今までの文面では上杉家の棟梁を関東管領と書いてきてますが、この時代以前は正確には執事とよばれていました。これ以降上杉家が関東管領を名乗ります。)

享徳の乱

足利成氏の時代になっても、両者は和睦することなく小競り合いが続きます。

享徳きょうとく3年(1454年)に成氏が、管領上杉憲忠のりただ(山内上杉家9代当主)を殺害するに至り、再度全面戦争となります。

これを享徳の乱と言い、約28年にも及ぶ長い戦いへと発展していきます。

当初は成氏側が有利に戦を進めますが、幕府側は今川範忠をを参戦させ戦の趨勢を逆転させます

成氏は防衛線を下総の古河まで下げ、そこに居城を築き以後「古河公方」と呼ばれるようになります。

豊島本宗家にも両者から参陣の命が出ていますが、文献に出てくるところでは上杉側に付いたと推測されています。

一方他の豊島一族の諸家は分裂し、成氏側にも上杉側にも付く支族が出ていたようです。

話はいったん豊島氏の話から、戦局全体の話へと移ります。この戦は混とんを極めていき、上総下総に君臨する大豪族千葉一族の動向が、この戦のキーパーソンとなっていきました。

その千葉氏は内部分裂し、本宗家の千葉胤直は上杉側に付きますが、一族の馬加康胤まくわりやすたね は古河公方側に付きます。

この内紛は古河公方側についた馬加康胤の勝利に終わり、千葉氏側は古河公方側へと寝返ります

上総下総は現在の千葉から茨城県の一部の地域ですが、上杉側としては対千葉氏への防衛線を築かなければならない事態となったわけです。

扇内上杉家の家宰太田道灌は、江戸城を築き対千葉氏の防衛線を構築していきます。

ここで関東の勢力分布を整理すると、古河公方側は上総・下総・安房(以上千葉県及び茨城県の一部)・下野(栃木県)・常陸(茨城県)・東上野(群馬県東部)を支配し、幕府・上杉側は相模(神奈川県)・武蔵(東京・埼玉県)・上野(群馬県)西部と言う状況になっていました。

劣勢になった幕府・上杉側は、江戸城と河越(川越)城を防衛ラインとしてここを死守していきます。

まとめ(豊島氏の立場)

ここで問題になるのが、河越・江戸間に存在する在郷の豪族豊島氏です。

上杉氏に恭順の姿勢を見せている豊島氏ですが、在郷の勢力は決して家臣ではありませんからいつ裏切るか分かりません。

道灌は江戸城の勢力圏と豊島一族の勢力圏の境に、多くの神社や仏閣を造り防衛ラインを広げていきます。

ちなみにこの時代の寺社仏閣は、砦としての役割を持っていました。

道灌にとって厄介だったのは、川越と江戸を結ぶ川越街道の途中に豊島氏がいることでした。

街道を握っている豪族は、関を設けて収入を得るのがこの時代の常識です。

また江戸城の脇を流れる平川(現在の神田川)の支流の妙正寺川・善福寺川の源流付近もまた、豊島氏の領地でした。

上杉側についていた豊島家ですが、その上杉家内部で内紛が起き、太田道灌との対立が表面化していきます。
次章では、上杉家の内紛を書いていきます。

表紙写真:関東平野

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