その後の豊島氏
豊島氏は文明9年(1477年)に太田道灌に滅ぼされてしまいますが、江戸時代の旗本に武蔵豊島氏の後裔を名乗っている一族がいます。
旗本の豊島泰盈は、隠居後自らのルーツを探るために豊島家の系図を作成しています。
石神井城陥落後
伝説では石神井城陥落後、豊島泰経は金の鞍を載せた白馬にまたがり三宝寺池へ入水し、娘照姫も後を追ったと言われています。
実際には泰経は9ヶ月ほど潜伏の後、文明10年(1478年)1月に大田道灌が倉賀野(群馬県)に出陣したすきに平塚城で蜂起しています。
この知らせを聞いた道灌はすぐに馬を返して、埼玉県の朝霞に野営します。
泰経は道灌が戻ったという知らせを聞き、戦わずに平塚城を放棄してしまいます。
この後の泰経の消息は不明で、平安時代から続く名門豊島氏本宗家はここに滅亡してしまいました。
その後の豊島氏
江戸時代に編纂された「金輪寺本豊嶋家家系図」や「泰盈本豊島系図」などによれば、泰経の息子豊島康保が北条家に使えたとの記載があります。
しかし、康保が泰経の息子とするには、じつは時代的に合致しないのです。
「豊島・宮城文書」という記録の中に康保の名前が出てくるのですが、その年月日が元亀3年(1572年)6月21日という日付が付されているのです。
豊島氏滅亡が1478年ですから、100年ほど後の人物ということです。この100年の間豊島氏に関する資料はほとんどありません。
「豊島・宮城系図」では弟豊島泰明が泰経の養子に入り、滅亡時には埼玉県行田市の忍城城主・成田長泰のもとに逃れたとの記述があります。
この忍城は山内上杉氏配下の豪族成田氏が築城したものですが、後に小田原北条氏の配下になっています。
泰明の子孫は、北条家に使えたとされています。この「豊島・宮城系図」は、宮城家が名門豊島氏の後裔であると言うことを証明するために作られた文章と考えられます。
しかし、実際には泰明は江古田原の合戦にて、討ち死にしています。
「布川系豊嶋氏系図」では、泰経が病弱のため弟の頼経が養子になり家督を継ぎ、兄弟とも江古田原の合戦にて討ち死したとされています。
そして、泰経の長男頼明が頼経の養子となり、家督を継いでいます。
明応8年(1499年)には、頼継が生まれています。
頼継は豊島城を再興しようとしますが、願いはかないませんでした。その後頼継は妻子を豊島に残し、布川(府川)に移りそこで布川城(茨城県利根町)を構築したとされています。
この一族は、後に徳川家に仕え繁栄することになります。
頼継の孫明重は3000石の大旗本になっていますが、源朝臣を名乗っており、平氏の一門である豊島氏の後裔であるかというと疑問があります。
ただ布川豊島氏が、平姓を名乗っている文章も現存していますので、この辺は今後の研究を待つばかりです。
まとめ
この他にも、房総方面に豊島氏ゆかりの氏族がいるとか、足利長尾氏家臣の豊島氏、忍城主成田氏に仕えた手嶋(豊島)氏、丹波の豊島氏などいくつか氏族が、武蔵豊島氏とのつながりを伝えています。
系図を作成した旗本豊島泰盈は、石神井氷川神社に泰経追悼の石灯籠を立て現存しています。
豊島氏の後裔の研究は、これから進むことを期待します。
表紙写真:石神井公園三宝寺池
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