豊島氏関連史跡:北区編
北区の京浜東北線王子駅から上中里駅付近は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて豊島氏の居城があった地域です。
これから紹介する王子神社は、豊島氏が熊野神社から若一王子を勧請して建立したものです。
都内の熊野神社系は、豊島氏にゆかりがあるところが多いようです。
飛鳥山・王子神社
北区の飛鳥山及び谷を隔てたところにある王子神社は、もっとも初期に豊島家が拠点とした地域です。
王子に流れている音無川は、石神井川の別名です。
石神井川を使って石神井城と練馬城・平塚城を行き来したのでしょうかね。
飛鳥山
飛鳥山の地名の由来は、豊島氏が熊野の飛鳥明神を祀ったことが由来とされています。
付近には豊島一族の滝野川氏の城があったとされていますが、遺構などは発見されていません。(現在は、北区立滝野川公園があります。)
飛鳥山は石神井川(この付近では音無川と呼びます)に隣接していますので、豊島氏との関連性は高いと考えられています。
王子神社
元亨2年(1322年)に豊島氏が、熊野の若一王子を勧請して作られた神社です。
当時の荘園経営は、京都の貴族や寺社仏閣が本所として持ち、現地の豪族(武士)が経営にあたっていました。
この地域の本所は、京都の「新熊野神社」で豊島一族が実質支配していました。(一説では、熊野神社とも考えられています)
王子神社の建立は、豊島氏と熊野信仰が密接であったことの現れです。 王子神社の境内にある、銀杏の古木は豊島一族が支配していたころからあるものです。 この大銀杏は、天然記念物として東京都指定文化財となっています。
平塚城跡・平塚神社
豊島泰経が最後の抵抗をしたのが平塚城ですが、平塚城は豊島氏のもっとも初期の居城です。
ただその所在地は不明で、現在の平塚神社がそのあとだと考えられていますが、遺構などは発掘されていません。
初期の平塚城と、泰経が最後にこもった城とは位置が違うとされ、泰経の時代の城は七所神社付近にあったとも考えられています。
平塚神社
豊島氏の初期の居城は、現在の平塚神社当たりであったと推定されています。
飛鳥山からこの平塚神社にかけての一帯は、豊島氏の居城があったとされますが、発掘された確実な遺跡はなく史料的な部分での検証しかされていません。
この平塚城初期の城主は「豊島太郎近義」とされています。
近義は、前九年の役で勝利し凱旋した八幡太郎義家こと源義家と弟義綱・義光を歓待し、義家から鎧と十一面観音を下賜されています。
後三年の役の後も義家は、近義の館に立ち寄り歓待に感謝し下賜品を出しています。
豊島氏はこの甲冑を神社の裏手に塚を造り奉納し、甲冑塚としました。
この塚が、平面であったため平塚という地名になったとの言い伝えです。
この時期に豊島氏は源氏とのつながりを強くし、鎌倉時代には有力御家人としての地位を築いています。
関連記事:平塚神社:豊島氏終焉の地
城官寺
平塚神社の元別当寺で、一説では平塚城の跡地はこの城官寺あたりではと言われています。
城官寺は、平塚神社脇の蝉坂から小道を入るとすぐにあります。
関連記事:城官寺:豊島氏初期の居城平塚城跡
七社神社
豊島氏最期の本宗家である豊島泰経が最後に抵抗した平塚城は、こちらの七社神社の地にあったとする専門家もいます。
豊島泰経が対太田道灌対策として、「新たに城を築いて」との記載があります。
七社神社周辺が城跡と比定されますが、遺跡等は発掘されていません。
関連記事:七社神社:渋沢栄一ゆかりの神社
まとめ
北区のこの地域は、平安時代から鎌倉時代の豊島氏の拠点ですが、遺跡などの発掘はされていません。
豊島氏ゆかりの神社・寺院がありますので、周る価値のあるところです。
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