長尾景春の乱

2022年2月24日

長尾景春

 

豊島氏が滅亡する文明10年(1478年)の5年前までは、上杉氏の下で大田道灌と共に戦っていました。

鎌倉時代は有力御家人であった豊島氏ですが、室町時代になると相対的にその地位は低くなり幕府の直臣でなく、その下の管領の下に付く地位に甘んじています。

勢力圏も徐々に道灌に侵食されていきますが、上杉という巨大勢力へ単体で挑むことはまた不可能でした。

上杉家分裂

ただその上杉氏の内部は一枚岩ではなく、権謀術数が渦巻く混とんとした内部事情でした。

室町幕府の創始者足利尊氏の母は上杉家の出身で、室町前・中期は上杉家の力は絶大なものがありました。

権力の絶頂にあった上杉家ですが、享徳の乱以後は扇谷上杉山内上杉が残りお互いにけん制し争うようになっていきます。

上杉家執事長尾家

長尾家は桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏の氏族で、鎌倉景明の息子で大庭景宗の弟である景弘が、相模国鎌倉郡長尾庄に住み長尾次郎と称し長尾氏の祖となっています。

源頼朝の蜂起のときは、長尾氏は平家側に付きましたが、平家滅亡後は三浦氏の配下に付き鎌倉時代へ命脈をつないでいます。

ところが三浦氏と北条氏の抗争となった宝治合戦で、一族がほぼ全滅し家は没落してしまいます。

長尾景忠はその中で数少ない生き残りとして、家を再興していきます。

上杉氏の初代重房が、鎌倉幕府6代将軍となる宗尊親王に従って鎌倉へ下向した時期に長尾氏は上杉氏の家臣となっています。

その後長尾氏と上杉氏はたびたび婚姻関係を結び、外戚として上杉氏の執事となっていきます。

長尾氏の外戚に当たる上杉藤景は、長尾家に養子に入っています。

越後の長尾景虎(上杉謙信)はこの長尾氏の一族で、上杉氏と近い関係の血筋だったわけです。

長尾景春の乱

上杉家の家宰は当初は宗家である鎌倉長尾家の者がついていましたが、鎌倉長尾満景は上杉禅秀の乱で戦死してしまいます。

そのため家宰職は総社長尾家に移りますが、総社長尾実景が享徳の乱により主君・上杉憲忠と共に命を落としてしまいます。

そして今度は、白井長尾家に家宰職が移っていきます。この家宰職には、後に乱を起こす長尾景春の祖父長尾景仲が着いています。そして景春の父長尾景信も家宰職についていますが、景春は家宰職には着くことができませんでした。

この裁定は山内上杉の顕定が行った物で、家宰職は総社長尾家忠景(景春の叔父)が着きました。

この時代白井長尾家と総社長尾家は対立関係にあり、この跡目相続は大きな遺恨を残すことになります。

文明8年(1476年)扇谷上杉家の執事大田道灌が駿府今川家の内紛鎮圧のため江戸を離れると、長尾景春はついに鉢形城で蜂起し内紛が発生しました。

まさに鬼の居ぬ間の蜂起でしたが、上杉顕定を打ち破り上野国にまで後退させています。

しかし、道灌が戻ってくると、形成は逆転し徐々に押されていっていまいます。

長尾景春の乱」は、上杉家を二分する内乱となり、敵の敵は味方と古河公方成氏は景春を支援しました。

この後古河公方と上杉氏は道灌のすすめで一時期的に和睦し、後ろ盾を失った景春は関東を追われることになります。

まとめ

豊島一族は対古河公方との合戦では、白井長尾家の軍に所属し戦っていました

白井長尾家の軍下にあった豊島泰経は、この合戦では景春側で戦うこととなりました。史料的には確認できませんが、景春の妹が泰経の妻だったとされています。

上杉家最前線の司令官道灌は江戸城と川越城を拠点としていて、豊島泰経は道灌と隣接する長尾景春側の豪族がであったわけです。

こうして太田道灌VS豊島一族の戦いは不可避となってしまいました。

 

表紙写真:鉢形城跡

 

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歴史

Posted by tosimashi