豊島氏関連史跡:中野区編

2022年3月18日

哲学堂公園

中野区には形として残っている遺跡はあまりありませんが、豊島泰経太田道灌が雌雄決した江古田原・沼袋古戦場跡があります。

古戦場跡は、現在江古田公園となっています。

道灌は江戸城から神田川をさかのぼり、神田川の支流の妙正寺川をさかのぼり沼袋に補給物資を送ったとされています。

この江古田原周辺で妙正寺川は、北側に大きく蛇行して練馬区堺近くを通ります。

練馬区の旧豊島園には豊島氏の支城練馬城があり、対する道灌は中野区の沼袋氷川神社に陣取りました。

江古田原古戦場

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江古田原・沼袋古戦場跡

西武新宿線沼袋駅を降り、北方向に歩いて5分ほどで哲学堂公園があります。この哲学堂とその北側にある江古田公園あたりが江古田原・沼袋古戦場跡です。

もちろんこのあたりは住宅街となり、古戦場跡という雰囲気はありません。

北野神社

北野神社

北野神社は江古田公園入口の手前にあります。

この神社には、道灌が合戦の祈願をしたと伝えられています。(上の地図では、稲荷神社と記載されています)

豊島塚


哲学堂内野球場の北東隅に、江古田原の合戦で戦死した人たちの供養塚がかつてありました。

中野区歴史民族資料館・金塚

この中には豊島氏と道灌の合戦に関する資料も少し展示されています。

合戦古文書

合戦図

資料館のパネルだと4月13日道灌が平塚城に攻め入ったとなっていますが、現在の研究では練馬城をまず攻めたようです。

練馬城を攻めた道灌は周囲を焼き払い一時退却します。この気に豊島泰経・泰明兄弟は追撃しますが、道灌は江古田原に兵を潜ませておき挟み撃ちにします。

この闘いで泰明は討ち死にし、泰経は石神井城に退却しています。

上の図だとすぐに道灌が追撃していますが、道灌は一旦石神井城の南側の善福寺池周辺の豊島勢を掃討してから愛宕山に陣取っています。(愛宕山は現在早稲田学院高校のあたりです)

この時善福寺は、道灌に抵抗したため堂宇は全て焼き払われています。現在の善福寺と、この時の善福寺が歴史的に連なるものかは史料がなく不明です。

石神井城陥落の後、泰経は平塚城へと落ち延びています。

資料館内にある金塚です。

合戦の後村人たちが、刀、鎧、兜を埋めたことからこの名前がついています。昭和10年に道路工事のため、この塚周辺を掘り返したところ、多数の人骨が出土しています。その遺骨はここより北側にある、正覚院に埋葬されてました。

お経塚

かつては豊島塚の一つでしたが、ここより北側にあった東福寺が焼け、そこにあった経文や過去帳の灰を埋めたことからお経塚と言われています。

かつては人の背の高さほどの塚でした。昭和26年ころに塚を崩したとき、やはり人骨が出土していますので、江古田原合戦との関連が考えられます。

中野区歴史民族資料館と金塚の間の通路から北側に道があります。その道を右に曲がり最初の道を左に行ったところのすぐにあります。(地図未掲載ですがGoogl マップに掲載してます)

この周辺にはかつて豊島塚や多くの塚があったのですが、都市化の波でそれらはほとんど姿を消しています。

江古田氷川神社

江古田氷川神社

道灌はここの氷川神社でも、戦勝祈願をしています。写真の右側に見える神楽殿は、中野区では数少ない江戸時代の建造物です。

沼袋氷川神社

沼袋氷川神社

西武新宿線沼袋駅より徒歩3分くらいのところにあのが、沼袋氷川神社です。この神社に、道灌は陣屋を立て練馬城と対峙しました。

道灌は戦勝祈願に杉を植樹しています。この杉は高さ30メートルほどの大木でしたが、残念ながら昭和19年に枯れてしまいました。

まとめ

江古田原の合戦では、道灌は中野区側に陣取っていましたから中野区には道灌関連の史跡・遺跡が数多くあります。

道灌は、豊島氏との勢力の境に神社・仏閣をつくり勢力を少しづつ広げていきました。この頃の寺社は、要塞の役目も担っていました。

戦闘に勝利した道灌はこの地を収め、道灌もしくは地域の住民が豊島氏の戦死者を供養するために塚をいくつも作っています。

それらは、今やほとんど失われています。

 

表紙写真:哲学堂公園 写真AC提供