豊島氏関連史跡:練馬区編
練馬区は豊島氏の本拠地で、石神井城・練馬城が存在した地域です。
城の近くにはゆかりの、神社や仏閣もあります。
豊島氏ゆかりの史跡は、主に石神井公園内とその周辺に点在しています。
練馬城跡は旧豊島園内にあったのですが、特に史跡となるものはなかったようです。旧豊島園のハイドロポリスあたりが、城郭の跡でないかと考えれれています。
石神井城跡
戦国後期の時代と違い、城跡と言っても石垣などが残っているわけではありません。
石神井城跡は、三宝寺池の南側にあるこんもりとした丘といった感じです。
石神井城は文明9(1477年)年に、太田道灌に攻められ落城しています。
築城は「豊島泰景」とされ、詳しい築城年代は不明ですが鎌倉末期ごろと推定されています。
石神井周辺の所領は、宇多氏から婚姻関係を経て宮城氏そして豊島氏へと譲渡されています。
城として最も整備されたのは15世紀半ばで、道灌との緊張状態が高った時代です。豊島氏は、江戸城築城時期に対抗として整備を進めたと考えられています。
石神井城は台地の上にあり、その規模は南北約100~300メートル・東西約350メートル、面積3万坪に及ぶと推計されています。
城の北側に三宝寺池、南・東に石神井川を要し天然の水堀により守られた要塞で、西側のみ人工の防御が施されていました。
発掘調査はたびたびおこなわれていますが、日常品の陶磁器はあまり出土しておらず、生活は別の場所に館があったと推測されています。
豊島氏最後の当主豊島泰経は、豊島城陥落後支城の平塚城で再起をかけましたが、太田道灌に包囲され戦わずに撤退しています。その後の泰経の行方は分かっていません。
穴弁天
三宝寺池内に厳島神社がありますが、その鳥居の向かい側にあるのが穴弁天社です。
この洞窟は、石神井城からの抜け穴と言われ、その奥には豊島家の財宝が隠されているという言い伝えがあります。
一時期は崩落していましたが、昭和50年に復旧工事がなされています。
三宝寺池
東京23区にある池とは思えない自然の多い池です。伝説ではこの池に、豊島泰経と照姫が身を投げたと言われています。
三宝寺池の北側にあるのが「姫塚」です。
やはり隣接して、殿塚があります。
三宝寺池は公園の北側から行くと、だいぶ下ったところにあります。
三宝寺
三宝寺は、室町時代の応永元年(1394年)に鎌倉大楽寺の大徳権大僧都幸尊法印が、小仲原(現在地より500メートルほど東、三井住友銀行グランド当たり)に創建した真言宗の寺院です。
この三宝寺は豊島氏が立てたものではなく、豊島氏を滅ぼした太田道灌が豊島氏供養のために石神井城跡地に当寺を移転させたものです。
道場寺
道場寺の創建は、南北朝時代の応安5年(1372年)4月10日に豊島輝時が、大岳禅師を招いて建立しています。
豊島輝時は石神井城主豊島左近太夫影村の養子で、執権北条高時の子で相模次郎時行の息子という経歴の持ち主です。北條(豊島)輝時が、土地を寄進して堂宇を整えこの時から豊嶋山道場寺と号しています。(北條輝時の実在を疑う研究者もいます)
道成寺は豊島氏の菩提寺で、石神井城陥落時に太田道灌により焼き払われています。
寺内には豊島泰経と推定される墓がありますが、南北朝から室町中期のものとされますが埋葬者の特定はされていません。
関連記事:道場寺:豊嶋氏の菩提寺
※道成寺の山号は「豊嶋山」といいます。このページは山号に沿ってい「豊嶋」と記載しました。
石神井氷川神社
社伝によれば応永年間(1394~1428年)ころに、武蔵野一之宮である大宮氷川神社より分霊を勧請して創建されたとされています。
発掘調査では、この周辺に幅10メートル深さ50センチの窪地が発見されており居館跡ではないかとされています。豊島氏の館跡かも知れませんね。
この場所は石神井城跡のすぐ脇にあり、豊島本宗家の館と守り神がここにあったと推測されています。
練馬城
練馬区役所から豊島園を撮影した写真です。豊島園内には、練馬城に関する遺跡は残してなかったようですが、現在でもこんもりしていて城跡という気がします。
練馬城は豊島氏最後の当主豊島泰経の弟豊島泰明が城主をしていました。
この城の築城時期は明らかではありませんが、鎌倉末から南北朝期に石神井城の支城として建てられたものです。
内郭の規模は、東西約100メートル・南北約95メートルくらいの規模であったと推測されています。また土塁の幅は、10~15メートルくらいあり、高さは3メートル位あり頂上は通路として利用されていました。
豊島園のプール「ハイドロポリス」建築前の調査では、最大で幅約10メートル・深さ4メートルの空堀や土塁が検出されています。
出土物としては、土師器皿・甁・擂鉢・碁石と思われるものや用途不明の器などが発見されています。
豊島園は当初は、遊具のある城址公園として開かれており豊島氏から園名が採用されています。
まとめ
室町時代には豊島氏の中心は、練馬区に移っています。石神井城・練馬城・平塚城は石神井川で結ばれています。
江戸城を拠点とする太田道灌は、神田川の支流の一つ妙正寺川を昇って豊島氏と対峙しています。(神田川は、江戸城付近に流れています)
道灌は、妙正寺川の船頭たちに早船という名字を与えています。現在でも西武新宿線の鷺ノ宮付近には、早船姓のお宅が何件か残っています。
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