太田道灌VS豊島一族

2022年2月24日

太田道灌

 

扇内上杉家の執事太田道灌上杉景春と婚姻関係にある豊島泰経は、ついに沼袋・江古田ケ原で激突します。

先にも書きましたが豊島泰経の妻は、上杉景春の娘とも妹とも言われていますが、確かな資料によるものではありません。

ただ事実として上杉景春側で戦い、豊島氏は滅んでいきます。

道灌への対抗策

文明9年には、豊島氏は江戸城に対抗する城もしくは砦を構築し、川越街道を封鎖する処置をとります。この川越街道封鎖は、古河公方側からの指示だと考えられています。

川越街道封鎖により、道灌は豊島家討伐を決意しました。文明9年3月14日道灌は、相模から扇谷上杉軍を呼び寄せ、この軍を後詰めとし道灌軍本体が豊島家討伐として軍を進める計画を立てます。

しかし、おりからの大雨のため、上杉軍は相模から多摩川を渡ることができなくなりました。そこで道灌は、相模にいる景春側に与する者たちを殲滅していきます。

江古田原の合戦

文明9年4月13日に道灌は対豊島征伐の軍を動かし、まず豊島泰経の弟豊島泰明が陣取る、豊島城(一説では平塚城)を急襲します。

道灌は豊島場周辺に火を放ち、退却します。その知らせを聞いた、泰経は石神井城より出陣し、江古田原にて両者は激突します。

これが「江古田原の合戦」と言われるものです。名将と言われる道灌は、いったん退却すると見せかけこの江古田原に軍を潜ませていました。誘い出された泰経・泰明兄弟はこの伏兵により大惨敗を喫し、弟泰明はこの戦いで戦死しています。

またこの戦いでは、赤塚氏・板橋氏など有力支族も討ち死にしています。

泰経は豊島城を放棄し、全軍を石神井城へ兵を集め籠城の構えを見せます。

石神井城陥落

「江古田原の合戦」で勝利した道灌は、一気には石神井城を攻略せず一旦現在の杉並区善福寺池周辺の豊島氏の勢力滅ぼしていきます。

これにより後背の憂いを取り除かれ、現在早稲田高等学院のある当たりの「城山」に布陣しました。

石神井城を一気に攻めなかったのは、善福寺周辺に残っていた豊島氏の勢力と、石神井城の本体とに挟撃されることを避けるために先に力の弱い善福寺周辺を攻撃したと推測されています。

これを裏付けることは、杉並区の善福寺池にあった善福寺の僧侶が道灌に抵抗したため、堂宇すべて焼かれたという記録や、善福寺城という豊島氏側の城があったともされています。

城山に陣取った道灌は和睦を申し入れ、泰経側もこれを受け入れ城を取り潰すことで、和睦は成立しました。

しかし、豊島氏側は城の取り壊しを伸ばしほとんど作業を進めず、和睦から三日目に道灌は総攻撃をかけています。

石神井城は南に石神井川がありそこから攻め込むことはできない設計になっており、城の守りの主力は東に向いていました。

道灌は石神井川の上流から渡河し、守りの薄い西側から石神井城を攻略しあえなく城は陥落してしまいます。

明治時代にできた小説では討ち死にした豊島泰経の後を追って、娘の照姫が三宝寺池に入水したという悲話はこの時の合戦を題材にしたものです。

小説と違い泰経は石神井城を脱出して、平塚城(北区上中里)で再起を期しますがやはり道灌に阻止され、その後行方不明になっています。

ここに豊島本宗家は、滅亡してしまいます。

その後の豊島家

一説には、泰経の子豊島康保は小田原北条に仕えたといわれています。

康保を祖とする一族は、武田家・徳川家に仕え旗本となり明治まで続いています。

ただ家系図にはいろいろな疑問があり、旗本豊島家が武蔵豊島家(豊島本宗家)の直系かは定かではありません。(江戸時代の大名・旗本は、名家の子孫であると家系図を造り変えています)

まとめ

桓武平氏の流れをくむ江戸の名家豊島氏は、太田道灌により滅ぼされますが、その道灌もまた主君上杉により忙殺されてしまいます。

時代はこのあと戦国時代へと突入し、鎌倉公方や上杉氏は小田原北条氏により駆逐されてしまいます。

 

写真:川越市の太田道灌像

 

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