豊島氏所縁の史跡・寺院・神社

2022年2月24日

城官寺

 

豊島氏のゆかりの神社・仏閣は、練馬区を中心に杉並・中野・豊島区・北区に数多く残っています。

特に紀州から熊野権現を勧請し、都内にいくつかの熊野神社を立てています。その中最大は、東京十社の一つである王子神社です。
 

飛鳥山・王子神社

北区の飛鳥山及び谷を隔てたところにある王子神社は、もっとも初期に豊島家が拠点とした地域です。王子に流れている音無川は、石神井川の別名です。

飛鳥山

飛鳥山



飛鳥山の地名の由来は、豊島氏が熊野の飛鳥明神を祀ったことが由来とされています。

付近には豊島一族の滝野川氏の城があったとされていますが、遺構などは発見されていません。(現在は、北区立滝野川公園があります。)

飛鳥山は石神井川(この付近では音無川と呼びます)に隣接していますので、豊島氏との関連性は高いと考えられています。

王子神社

元亨2年(1322年)に豊島氏が、熊野の若一王子じゃくいちおうじを勧請して作られた神社です。

当時の荘園経営は、京都の貴族や寺社仏閣が本所として持ち、現地の豪族が経営にあたっていました。

この地域の本所は、京都の「新熊野神社」で豊島一族が実質支配していました。

王子神社の建立は、豊島氏と熊野信仰が密接であったことの現れです。

王子神社の境内にある、銀杏の古木は豊島一族が支配していたころからあるものです。

この大銀杏は、天然記念物として東京都指定文化財となっています。 

平塚城跡・平塚神社

豊島泰経が最後の抵抗をしたのが平塚城ですが、平塚城は豊島氏のもっとも初期の居城です。

ただその所在地は不明で、現在の平塚神社がそのあとだと考えられていますが、遺構などは発掘されていません。

初期の平塚城と、泰経が最後にこもった城とは位置が違うとされ、泰経の時代の城は七所神社付近にあったとも考えられています。

平塚神社

平塚神社


豊島氏の初期の居城は、現在の平塚神社当たりであったと推定されています。

飛鳥山からこの平塚神社にかけての一帯は、豊島氏の居城があったとされますが、発掘された確実な遺跡はなく史料的な部分での検証しかされていません。

この平塚城初期の城主は「豊島太郎近義」とされています。近義は、前九年の役で勝利し凱旋した八幡太郎義家こと源義家と弟義綱・義光を歓待し、義家から鎧を下賜されています。

後三年の役の後も義家は、近義の館に立ち寄り歓待に感謝し下賜品を出しています。

豊島氏はこの甲冑を神社の裏手に塚を造り奉納し、甲冑塚としました。この塚が、平面であったため平塚という地名になったとの言い伝えです。

この時期に豊島氏は源氏とのつながりを強くし、鎌倉時代には有力御家人としての地位を築いています。

関連記事:平塚神社:豊島氏終焉の地

城官寺

城官寺


平塚神社の元別当寺で、一説では平塚城の跡地はこの城官寺あたりではと言われています。

城官寺は、平塚神社脇の蝉坂から小道を入るとすぐにあります。

関連記事:城官寺:豊島氏初期の居城平塚城跡

七社神社

七社神社


豊島氏最期の本宗家である豊島泰経が最後に抵抗した平塚城は、こちらの七社神社の地にあったとする専門家もいます。

豊島泰経が対太田道灌対策として、「新たに城を築いて」との記載があります。七社神社周辺が城跡と比定されますが、遺跡等は発掘されていません。 

関連記事:七社神社:渋沢栄一ゆかりの神社

石神井城跡・周辺寺社

石神井城は、豊島本宗家終焉の地です。

小説では豊島泰経はこの地で討ち死したことになっていますが、実際は再起をかけて平塚城に逃げ太田道灌に抵抗しています。しかし、平塚城も陥落し、泰経の最期は不明となっています。

石神井城跡

石神井城跡

戦国後期の時代と違い、城跡と言っても石垣などが残っているわけではありません。

石神井城跡は、三宝寺池の南側にあるこんもりとした丘といった感じです。

石神井城は文明9(1477年)年に、太田道灌に攻められ落城しています。

築城は「豊島泰景」とされ、詳しい築城年代は不明ですが鎌倉末期ごろと推定されています。

石神井周辺の所領は、宇多氏から婚姻関係を経て宮城氏そして豊島氏へと譲渡されています。

城として最も整備されたのは15世紀半ばで、道灌との緊張状態が高った時代です。豊島氏は、江戸城築城時期に対抗として整備を進めたと考えられています。

石神井城


石神井城は台地の上にあり、その規模は南北約100~300メートル・東西約350メートル、面積3万坪に及ぶと推計されています。

城の北側に三宝寺池、南・東に石神井川を要し天然の水堀により守られた要塞で、西側のみ人工の防御が施されていました。

発掘調査はたびたびおこなわれていますが、日常品の陶磁器はあまり出土しておらず、生活は別の場所に館があったと推測されています。

穴弁天社


三宝寺池内に厳島神社がありますが、その鳥居の向かい側にあるのが穴弁天社です。

この洞窟は、石神井城からの抜け穴と言われ、その奥には豊島家の財宝が隠されているという言い伝えがあります。

一時期は崩落していましたが、昭和50年に復旧工事がなされています。

石神井氷川神社

石神井氷川神社


社伝によれば応永年間(1394~1428年)ころに、武蔵野一之宮である大宮氷川神社より分霊を勧請して創建されたとされています。

発掘調査では、この周辺に幅10メートル深さ50センチの窪地が発見されており居館跡ではないかとされています。豊島氏の館跡かも知れませんね。

この場所は石神井城跡のすぐ脇にあり、豊島本宗家の館と守り神がここにあったと推測されています。

関連記事:石神井 氷川神社:石神井城の守り神 氷川神社

道場寺

道場寺


道場寺の創建は、南北朝時代の応安5年(1372年)4月10日に豊島輝時が、大岳禅師を招いて建立しています。

豊島輝時は石神井城主豊島左近太夫影村の養子で、執権北条高時の子で相模次郎時行の息子という経歴の持ち主です。北條(豊島)輝時が、土地を寄進して堂宇を整えこの時から豊嶋山道場寺と号しています。(北條輝時の実在を疑う研究者もいます)

道成寺は豊島氏の菩提寺で、石神井城陥落時に太田道灌により焼き払われています。

寺内には豊島泰経と推定される墓がありますが、南北朝から室町中期のものとされますが埋葬者の特定はされていません。 

関連記事:道場寺:豊嶋氏の菩提寺

※道成寺の山号は「豊嶋山」といいます。このページは山号に沿ってい「豊嶋」と記載しました。

 

まとめ

まだまだ豊島氏ゆかりの史跡はあります。史跡には石碑も立ってますので、取材を続けていきます。