豊島氏の興隆から繁栄(平安末から室町中期)

2022年2月24日

三宝寺池新緑

 

東京23区には豊島区という区があります、また練馬区には豊島園という遊園地がありました。北区の王子あたりから練馬区の石神井までを、所領していた氏族が豊島氏です。

豊島氏は、平安末期から室町中期まで400年間ほど豊島郡を中心に勢力を持っていました。

豊島氏の支配地域をさらに詳しく述べると、都内の北区・練馬区を中心に板橋・杉並・中野・新宿・豊島・文京・荒川・足立・葛飾区の一部などを所領していました。

当時の行政区画である豊島郡とは少し違います。

また豊島氏が所領していた地域は、時代により変わっています。

豊島氏の起源(平安時代)

豊島氏は、桓武平氏の流をくむ一族です。桓武平氏は、平安京を造った桓武天皇の曾孫ひまご(もしくは孫)にあたる高望王を祖とする一族です。

高望王は臣籍降下し、「平」姓を賜り平高望と名乗ります。この「平」という姓は、平安京の「平」から来ていると言われています。

高望は昌泰元年(898年)に上総介に任命されています。いわゆる国司という役職です。(上総かずさは現在の千葉県中部)

このころの慣例では、上級国司は任地に赴かないのですが、高望は息子らを引き連れ実際に任地に赴いています。この時代になると律令制が形骸化し、武士などが私有地を持ち地方で実力をつけ始めました。

高望の息子たちは、それぞれ関東に土着していきます。

ちなみに平安末期に政権を取った平清盛は、長男国香の系統で鎌倉の執権北条家もこの系統とされています。

高望の五男「良文(村岡五郎)」の子孫たちは、上総氏・千葉氏・三浦氏・秩父氏となり坂東八平氏と言われ、関東でそれぞれ勢力を持っていきます。

豊島氏は、坂東八平氏の一つ秩父氏の流れを汲みます。

その秩父氏は、良文の孫である平将恒たいらまさつねを祖とする一族です。

秩父氏は朝廷に献上する馬と、秩父で産出していた鉄を抑え、この地で強大化していきます。

詳しいことはわからないようですが、秩父氏の支族が入間川を下り豊島に土着します。そして、「豊島」を名乗る一族が出てくるのですが、その時期に関しては史料的に定かではありません。

江戸時代の文献には、平将常たいらまさつねが治安3年(1023年)に武蔵介藤原真枝を討ちその武功により豊島郡を拝領したとの記述があります。

秩父氏の祖とされる平将恒と読みが同じですが、将恒と将常とが同一人物かは特定されていません。

この両名は良文の孫であるとされれていますので、同一人物の可能性は高いようです。

将常の息子二郎武恒たけつね武常)もしくは孫の常家つねいえの代には、豊島姓を名乗っていたと考えられています。

前九年の役では武恒は、源頼義に従い奥州に出陣しています。

ただ、『桓武平氏諸流系図』という文献では、常家の子康家が初めて「豊島」を名乗ったとされています。

ここで言えることは、11世紀ごろには、豊島家が成立しているということです。

このころの豊島家は、現在の北区王子から上中里周辺(豊島郡)を拠点としていました。この地域は9世紀ころには、郡衛があり政治的拠点の一つでした。

初期の豊島氏が拠点としていた豊島郡の平塚は、関東から奥州に向かう「奥大道」の出発点でした。

前九年・後三年の役のあと凱旋した源頼義・義家親子を豊島氏は歓待しています。

特に後三年の役から凱旋した義家は、常家に鎧と十一面観音を下賜しています。この時期に、源氏の嫡流との結びつきを強くしていきます。

このあと百年ほど豊島氏の名は文献には出てきませんが、平安末期に起こった保元の乱にて源義朝麾下で豊島四郎が負傷しています。

この四郎は、康家の次男豊島俊経だとされています。

平安時代の豊島氏は入間川を下り、現在の北区西原・王子地域に至ったり居を構えています。

また王子地域には石神井川があり、水運をつかさどる一族であったと考えられています。 

鎌倉時代の豊島一族

文献上豊島氏の初代とされる康家の子供清元(光)は、治承四年(1180)源頼朝の挙兵に従軍していることが鎌倉幕府の公式記録の「吾妻鏡」に出てきます。

清元とその次男葛西三郎清重は頼朝の信任が厚かったとの記述もあります。また孫(子)の豊島朝経の妻が、頼朝に綿布を献上したとの記録も残っています。

建仁元年(1201年)には、豊島氏は土佐の守護職に任命されています。他の秩父氏系の一族で、守護職に任命された氏族はなく、豊島氏がいかに鎌倉幕府内で高い地位を占めていたかがわかります。

鎌倉時代の豊島氏は、王子付近に「豊島荘」と呼ばれる荘園経営をしていたとされます。

鎌倉幕府の北条氏も平家一門(諸説あり)であり、豊島家本宗家は鎌倉幕府とは近い存在として栄えていました。

この時代の豊島氏からは、赤塚・志村・板橋・宮城氏など分家が起こり、豊島一族の軍力を高めています。 

南北朝時代の豊島一族

鎌倉幕府の重要な御家人である豊島家ですが、元弘3年(1333年)新田義貞が討幕の挙兵をすると秩父平氏(豊島・江戸・葛西・河越氏など)はこれに加わり、小手指原・分倍河原で北条家と激突し幕府を倒しています。

建武の中興(新政)と言われるこの動乱で政権を取った後醍醐天皇ですが、その治世は3年で頓挫しまいます。(原因は貴族を優遇し、武士にはほとんど恩賞がなく、武士の不満が高まったことが原因です)

武士の不満が高まり、ついには天皇と足利尊氏が対立します。ここで豊島氏は、足利側につきこの時代をうまく乗り切っています。

室町期になると、王子一帯の支配から石神井郷支配へとその軸足が移ってます。

室町時代の初期は、南北朝の動乱や尊氏・直義兄弟の相克(観応の擾乱かんのうのじょうらん)などがあり関東もまた戦乱に明け暮れていました。

平姓秩父氏は河越氏や豊島氏を中心として「平一揆」を形成し、武士団連合として尊氏側につき共闘していきます。

この動乱は尊氏側の勝利に終わり「平一揆」の力は、鎌倉幕府創世時のように力を増していきます。 

上杉家と豊島一族

初代関東執事(管領)であった上杉憲顕うえすぎ のりあき は、足利兄弟の内紛時、弟直義側の武将であったため、一時期越後に逃れていました。

しかし、尊氏がなくなると、鎌倉公方の足利基氏(尊氏四男)により憲顕は関東執事として復帰してきます。

直義側の上杉憲顕と尊氏側だった平一揆は深く対立し、応安元年(1368年)についに戦闘が起こってしまいます

この戦いは上杉側の勝利となり、平一揆の河越氏など大半の一族は滅亡しています。

豊島氏はかろうじて存続しますが、石神井の領地などを没収されてしまいます。

この戦いのあと上杉氏の勢力は増大し、関東執事の職は上杉氏により独占されるようになります。

管領は本来将軍の補佐役をさし、鎌倉公方の補佐役は関東執事と呼ばれていました。

鎌倉公方に就任した足利基氏の時代かその子供足利氏満の時代かに、執事ではなく関東管領と呼ばれるようになります。

関東の権力構造は、鎌倉公方と上杉氏による二重構造へとなっていきます。

この権力の二重構造は、のちに関東騒乱の素となるものでした。

 

豊島氏は滅亡を免れましたが、石神井などの所領は没収されています。

文献から見ると豊島本宗家は上杉氏側を選択し、その中で生き残りをかけたようです。

上杉側に恭順したためかは分かりませんが、応永2年(1395年)豊島泰宗の時代に石神井の領地が約30年ぶりに返還されています。

この後豊島氏は王子付近にあった拠点を石神井へ移し、石神井城・練馬城を築城していきます。 

まとめ

この項では、豊島氏の起源から関東管領の上杉家に従属するまでを書きました。

この後関東は、古河公方(鎌倉公方)と上杉家の対立と、上杉家内の内紛などで大混乱し戦乱の時代へと突入していきます。

 

写真:石神井三宝池の木立

 

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